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岩手県宮古市と立命館大学建築計画研究室

「漁港から銭湯がなくなると、漁港が滅びる」というジンクスを信じ、鍬ヶ崎漁港のために銭湯の再建を目指している75歳の女将さんがいます。東日本大震災の津波で流されてしまった、鍬ヶ崎最後の銭湯「七滝湯」の女将さんです。できっこない夢物語だと思われる人もおられるかもしれません。でもみなさんの力があれば、不可能を可能に、女将さんのお風呂に希望の灯をともせると信じて活動しています。

 

 

 私たち立命館大学の建築計画研究室は、指導教員の宗本晋作先生と共に、2011年の夏から岩手県宮古市に通い、重茂漁港の漁師が住む仮設住宅の横に、仮設集会所「ODENSE」の建設にあたりました。地元の言葉で「ようこそ(ODENSE)」という意味の集会所を、2012年にも、別の漁師町である鍬ヶ崎地区に建設しました。

 

   どんどん鍬ヶ崎の皆さんと縁が深まり、被災前の地区を模型で再現し、住民が語り合う「記憶の街ワークショップ」を行いました。これをきっかけに、私たちと鍬ヶ崎で暮らしていきた方々が中心となり、「自分のまちづくり会議」と称する自分たちの街を考える会を協働で実施しています。もう一度「銭湯をつくろう」という声は、震災前に地域の拠り所になっていた「七滝湯」を思い出す住民の方々の語りの中からも生まれています。

 

 このような女将さんの信念や住民の方々の声から、人々が集い、日々の仕事や暮らしのことを語り合うことができる「懐かしい場所」を復建しようと考えました。鍬ヶ崎地区は区画整理が遅れています。まだまだ仮設住宅での暮らしを余儀なくされる方がおられます。

   

   復建は、地元の皆さんとの協働だけでなく、復建プロセスそのものに、より多くの方に関わっていただき、女将さんを励ましたい!と思い、参加型の企画にすることにしました。「皆さん」の声が届き、建設後には全国から「皆さん」が集い、「皆さん」に愛される、住民の方々や観光客にとって大切な震災復興のシンボルにしたいからです。

仮設集会所ODENSE1

   2011 年3 月11 日発生した東日本大震災。

 

  50世帯以下の仮設住居には住民が集まり安心感を共有する集会所が設置されません。リアス式海岸沿いの岩手県宮古市重茂地区にも、このような小さな仮設住居群が点在しています。

 

  私達はこの漁村の仮設住居の横に、居住者のための簡易集会所を設置し、自分たちの手で建設までを行いました。震災発生から5か月後の8月に発足し、宮古市の方々との打ち合わせを重ねながら計画を進め、11・12月に総勢31名の学生が現地の仮設住居に滞在し、建設作業を行いました。

 

  被災した地元の大工さんとの共働作業、様々な企業からの材料・技術協力、漁師の方々との交流、座学では得られない様々なプロセスを経験し、2012年1月9日に竣工式を迎えることができました。

 

  集会所の名前には地元の言葉で「いらっしゃい」という意味の「おでんせ(ODENSE)」を採用しました。

仮設集会所ODENSE2

   ODENSE1の竣工から4ヶ月が経った2012年5月新たな集会所「ODENSE2」の建設の話が浮上しました。

 

  ODENSE2を建設した岩手県宮古市鍬ヶ崎地区は市街地に位置し、震災後隣近所に住んでいた人々は皆別の仮設住居に移り住み、元々あった住民間のコミュニティーが崩壊しました。

 

  現在の鍬ヶ崎は住宅が波により流されほとんど更地に近い状態となってしまっていますが、数年後には再び住民が戻ってくる予定です。その際に、コミュニティーを再形成するための拠点として利用することを目的にODENSE2の建設が始動しました。

 

  前回同様、地元の大工さんにお世話になりながらODENSE1で発覚した問題点を改善しながら計画は進められました。

 

  ODENSE1で得たノウハウを活かし今回は8月の一ヶ月で建設を行い、9月6日に竣工式を迎えました。

記憶の街ワークショップin宮古・田老

   震災発生から2年経ち、被災地が求めるものがハードな面から精神的なソフト面の恒久的なサポートへと変化していきました。

 

そんな中、住民の方々から震災以前の街の姿、記憶を思い出すことが出来なくなってきているという話を耳にしました。

 

  そこで、私たちは人々がモノによって記憶が導き出されるように思い出すのではないかと考え、2013年3月に模型を通して住民とのワークショップを行うプロジェクト「記憶の街ワークショップin田老」が発足しました。

 

  プロジェクトは1ヶ月かけて被災前の街並みを500分の1スケールの模型で復元することから始まりました。4月に制作した模型を現地へ持ち込み、1週間ワークショップを行いました。ワークショップでは、住民の方々から街の記憶を伺いながら、模型に着彩を施していきました。

 

  住民の方々が模型を眺めながら昔の風景を懐かしみ、思い出を語りながら色を塗っていくことで、復元模型から鍬ケ崎の記憶をカタチとして残すための媒体へと変化していきました。

記憶の街ワークショップin宮古・鍬ヶ崎

   鍬ケ崎地区は宮古市の中でも歴史が古く、昔の宮古市の中心でした。また、ODENSE2号を建設したという繋がりもあり、宮古市から「是非、鍬ケ崎でも行ってほしい」と声をかけていただいたことから、田老で行ったワークショップから2ヶ月経った2013年6月に「記憶の街ワークショップin鍬ケ崎」のプロジェクトが発足しました。

 

  田老と同様に復元模型を3ヶ月かけ制作し、9月に現地にて6日間ワークショップを行いました。鍬ケ崎でのワークショップは、田老でワークショップを行ったこともあり多くの方々に訪れ模型に触れていただくことができました。

 

  また、今回のワークショップでは会場から街へと住民の方々と一緒に行き震災の時の状況を実際の場所にてお話しいただくフィールドワークを行いました。

 

  この出来事により、学生と住民の方々との距離が近づくとともに、学生たちは一層この場所で起きた震災の重大さを学ぶことができました。

自分のまちづくり会議ワークショップin宮古・鍬ヶ崎

   記憶の街ワークショップを行い、住民の方々と話す中で震災後の新たなまちづくりについての議論が住民の間で十分にされていないという事を知りました。

 

 そのため、鍬ケ崎地区における都市計画は住民の意見が反映されないまま進んでいき、決定した内容を行政から住民へと提示される状態でした。

 

   都市計画が進んでいき、再び元の生活ができるようになるには少なくともあと3年、待っているわけにも行かずやむを得ずほかの地域で暮らし始める人も出始め、地元に戻るという意識が薄れてきていました。

 

  そこで、私たちは現在決められている都市計画の中でも住民の方々がどのようなことができるのかを提示し、10年,20年後再び元の場所で生活を送るイメージを住民間で共有し、少しでも多くの住民の方が戻ってくるきっかけになればと「自分の街づくり会議」を2013年10月から4回に渡って行いました。

「初代プロジェクトリーダー」左:右近 右:酒谷   動画はこちらです。

「三代目プロジェクトリーダー」左:岩瀬 右:田本   

「二代目プロジェクトリーダー」左:岩井 右:松井   

現研究室メンバー  

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